実録小説

 

「冤罪、嘘」

                                  

 大村秀吉にとって、その日の目覚めは最悪だった。

 ベッドのヘッドの向こう、頭の上で携帯が鳴っている。意識が覚醒するのを感じながら、秀吉は寝不足の重たい体を起こした。

 携帯を手に取る前から、秀吉は不審な顔をしていた。

着信音は通常のベル。マメに番号をグループに分け、それぞれ着信音を変えている秀吉の携帯にとって、その音は未登録番号を指す。つまり、今までかかってきた事の無い相手か、かかってきても覚えておく気の無い、ずばり言えばかけたくない相手。

秀吉は電話に出た。大方間違い電話だろう、と思いながら。

「もしもし。」

「こちらはN警察署。」

 相手はぞんざいな口調で出た。

「…、はぁ?」

「あんた大村さんだね。」

 続けざまに喋る相手に、秀吉は寝起きの頭をどうにか目覚めさせようとしていた。

「悪いけどこっち来てくれないかな?」

 一瞬考えてから、秀吉は訊き返した。

「…何で?」

「『何で』?」

 相手が更に訊き返し、続けて声を荒げて言った。

「判ってんだろう?あんた自分が何やってるか。」

 ここまで来ると、秀吉の体と頭と、戦闘的感情が目覚めていた。立ち上がると、はっきりと言い返した。

「あぁん!?」

「あんた、タチバナさん知ってるね?」

橘。秀吉の記憶に残る人間は一人しかいない。半年前に自分の前から去って行った恋人。

「橘さんが言ってるんだよ。あんたに迷惑行為をされて困ってるって。で、いつこっちに来れる?」

「何だって?」

「こっちに来て話してくれないか?」

 流石に秀吉も怒っていた。

「…何で行かなきゃなんねんだよ。」

「彼女も困ってるんだ。あんたのストーカー行為のせいで。」

「おいコラ!」

秀吉はついに声を上げた。

「ストーカー、だぁ!?証拠でもあんのか?」

「証拠なんてない。だからこっちに来て話をしてくれ。」

「てめーよぉ、そこまで言って俺が潔白だったらどうすんだ、ポリ!」

 遂に秀吉は本格的に怒り始めた。

「とにかくN署の保安係に来てください。私はヤマグチといいます。」

一瞬沈黙したのち、電話の口調が変わった。秀吉の口調に、相手が思ったより楽な相手ではないと感じたのだろうか。

「ヤマグチ。階級は?」

「階級なんていいでしょう。」

 その口調に、秀吉は相手の嫌な部分を突いた事を確信した。警察組織は階級社会だ。常に上に対して卑屈になっている者が多い。ヒラ巡査に「一つ星」と言えば大抵の奴は腹を立てる。

「そうはいかねぇよ。何て言ってアンタの所へ行けばいい。」

「ヤマグチさんって言って貰えれば判ります。」

 秀吉は机の上に置いてあった紙に名前をメモった。

「…。で、何時に行きゃいいの?」

「何時でも構いません。そちらの都合に合わせます。」

 最初に比べると態度がまるで違う。面倒臭かったが、行かなければもっと面倒な事になりそうだ。秀吉は二時間後に行く約束をして電話を切った。馬鹿げた事でもやらなければならないのなら、さっさと終わらせるに限る。

秀吉は携帯を机の上に置き、欠伸をひとつしてから雨戸を開けた。

秀吉の心境などまるで無視するかのような、抜けるような青空が広がった。。

 橘ミサとは半年前に別れた。

 二つ歳下のミサは綺麗な女だった。だが、余りにネガティヴな感情の持ち主だった。秀吉の自分に対する感情を常に疑い、不安になっていた。秀吉は何度もそれを安心させようと努力した。

 そのルックス故に、たちの悪いストーカーの被害も多かった。思えば秀吉がミサと親しくなったのは、ストーカー対策の相談に乗ってからだった。秀吉は危険を覚悟でストーカーと対峙した事も数回あった。剣道の有段者である秀吉は、木刀を持ってミサの部屋に泊まろうかと考えた事すらあった。秀吉と知り合う前、ミサはストーカーの運転する車に突っ込まれた事すらあったという。幸い怪我は無かったが。

 それを差し引いても、ミサは人間不信に近かった。秀吉は自分が優しく、時に我儘を許しても、ミサが自分を信じ、安心して一緒にいる事を願った。

 だが、秀吉が内心恐れていた「この恋はミサの自爆で終わる」は、現実になった。

 彼女は秀吉の感情を疑い、自分の考えに沈んでいった。秀吉の言葉は全て嘘、愛なんて無い。それが彼女の出した結論だった。

 秀吉の想いは届かず、ミサは秀吉の心と体を引きちぎるようにして去っていった。

 腹立ちと寝不足で食欲も沸かず、秀吉はシャワーを浴びて髭を剃った。

一時間程、コーヒーを飲みつつ煙草を吸い、頭の中を整理する。とにかく行くしか無いようだ。何もやましい事は無い。そう時間もかからないと思えた。

それから愛車セピアZZ、もう十年以上乗っている原付でN署に出向いた。秀吉の自宅から三十分もかからない距離だ。

署の玄関先にZZを停める。ヘルメットを脱いでメットインシートに仕舞うと、度付きのサングラスを外した。九月の昼間の太陽が眼を射す。一度は秋の涼しさが訪れたのに、今日は季節が夏に戻ったかのように暑い。

 ため息を一つついてから中に入る。保安係は三階にあった。どこか市役所みたいな、無機質な、まるで消毒液の匂いがするのは、お役所日の丸の傘の下に入った奴らが発する共通のものかも知れない。階段を登りながらそう思った。

 三階に着くと、解り難い表示に従って保安係の部屋を見つけた。秀吉は狭い通路を抜け、受付の隣、目の前にいた貧相な中年男に話しかけた。

「大村といいます。保安係の…」

 刑事の名前は忘れていた。メモは机の上に放ったままだ。それに気付いたのは署に着く寸前だった。どうせ大した事じゃない。

「ヤマウチさんだかカワモトさんだか…。」

 そのやりとりを聞いていた者が、部屋の奥にいる男を呼んだ。男は秀吉に向かって歩いてきた。

「どうも。ヤマグチです。」

 秀吉は刑事を見た。メガネハゲ。名前などどうでもいい。お前はメガネハゲ。秀吉は心の中で仇名をつけてやった。もっともその名は、今日限りの短い命だ。

「こっちに来て下さい。」

 五十代に入ったと思われる刑事に促され、秀吉は部屋の奥に向かった。途中の小部屋で、二十代半ばと思われる女性が座って話をしているのが見えた。

 ストーカー被害の相談だろうか。ちらっと見ただけでは判らないし、興味も無かった。今は自分の身に起きた災難が全てだ。さっさと終わらせたい。しかもその自分は、ストーカーの容疑者ときた。馬鹿げた話だ。

 メガネハゲは小部屋のドアを開けたが、既に先客がいた。

「悪いね。こっちの部屋でいいかな?」

 刑事が指した右隣の部屋。それは刑事ドラマで飽きるほど見た小部屋、取調室だった。

もう上等だよ、秀吉は胸中でひとりごちた。

 取調室に入ると、刑事は少し隙間を開けて着席した。机を挟んで壁に背中を向けたパイプ製の椅子に座った秀吉の目にそれが入った。

 取調室内で不当な暴力行為が発生した場合に備え、ドアは完全には閉めない。そんな話を思い出したのは、ずっと後になってからだった。

 実際に入ってみると、取調室はテレビで見るよりずっと狭かった。

 尋問はうっとうしかった。

 秀吉の容疑。それは現在ミサがストーカーに付きまとわれている。そしてミサはその津トーカーが秀吉だと言っている。という馬鹿馬鹿しい話だった。

「そもそも男と女の話だからね…。」

 刑事は下世話な笑顔を無理に浮かべて言った。

「法律がどうこうできるものじゃないんだ。ただ橘さんがね、再三ここに来て被害を訴えるものだからさ…。」

 刑事は回りくどい話し方を続けていた。同時に秀吉の事を、刑事事件にもならない話の容疑者、ストーカーだと決め付けている口調だった。

 秀吉は来る途中で買ったマルボロ・ライトに火を点けた。この部屋に入れられてからもう五本目だ。刑事は煙草を吸わないが、許可が出たので吸いまくった。刑事が煙草の煙でむせ返るのを確認してからは、そのペースも早まった。

「それで、私は何をどう話せば宜しいんですか?」

 秀吉の口調は、完全に自分の無実から来る余裕、“上から目線”の敬語だった。

「まず、橘さんとはどういう関係だったのかな?」

 馬鹿馬鹿しい話だが、秀吉は話し始めた。

 出会ってから付き合い始め、別れるまでの三年間。どんな付き合い方をしたのか。

 どんな付き合い方?

「食事したり、ドライブ行ったりとか、かな?」

 余りに馬鹿な刑事の質問に、秀吉はこう答えた。

「世間一般のカップルと同じですよ。」

 いっその事、どんなセックスを何回したか言ってやろうかと思いついたが、思いついただけだった。

 そして三年後、別れる事になった。その理由は?

「考え方の相違ですよ。」

 秀吉の答を、刑事はノートに記していく。その字は余りにも汚く、秀吉には読めない。もしかするとそれが狙いかも知れない。気付かぬ内に自分の罪を認める供述を書かれていたら堪らない。

 ドアが開き、別の刑事が顔を突っ込んだ。

「隣、空いたよ。」

 メガネハゲは秀吉を見た。

「どうする?ここでいいかな?」

「いいっすよ、別に。」

 動くのは億劫だった。それに何処で話そうと、内容は同じだ。

 最後に会った日の説明を終え(どこで食事した?ファミリーレストラン?店の名前覚えてないかな?あ、ガスト?)、話はその後秀吉がミサの誕生日にカードを送った事に移った。

「つまり別れた後に、橘さんに手紙を送ったのは認めるね?」

「向こうも私の誕生日に電話をくれましたから。そのお返しのつもりで。」

「橘さんも電話した?それはいつの話?」

 秀吉は刑事がノートに記した、自分の誕生日を指差した。

「橘さんから電話があったんですか?」

「ええ。」

 秀吉は刑事の表情を見て気付いた。

「向こうはその事は話してないんですか?」

「ええ。大村さんが年末に別れてからも、しつこく付きまとっている、とだけ。」

 秀吉の心に暗い影が射した。

 年末の別れ。確かに最初に別れ話が出たのは年末だ。だがそれ以降、答をだすのを待ってくれと言ったのは彼女の方だった。

 秀吉の心の何処かに残っていた、彼女の考えを許そうと思っていた気持ちが消滅した。

「そのバースデーカードは?」

「受け取り拒否で戻ってきました。」

 続いて、秀吉が受け取った警告文書に話が進んだ。

 

警告文書。バースデーカードが帰ってきてから、一週間後に届いたもの。

 そこには彼女の文字で、こういう意味の文章が書いてあった。

“私は貴方の行為に非常に迷惑しています。つきましては今後、無言電話、待ち伏せ、電話や手紙による交際の強要といった行為が行われた場合、速やかに対処致します。”

 そして、郵便局の公式文書である証明、郵便局長の署名があった。

 秀吉はそれを一読し、呆れ返って力なく笑ったものだ。誰の事を言ってるんだ?俺なのか?どこまで俺を疑えば気が済むんだ?人はそこまで、昔の恋人を信じられなくなるものか?

 秀吉は文書を机の引き出しに仕舞うと、その日からより努めて彼女を忘れていった。

 誤解されたのは悲しい。しかし、そこまで人を疑い、全てを自分のせいにされると、腹も立った。だが疑いを晴らそうとしても、誤解を解こうとしても、連絡しようとした瞬間に自分は通報されるのだろう。そう思うと馬鹿々々しく、次第に警告があろうが無かろうが、彼女に連絡する気など無くなっていた。

 そう、忘れていたのだ。今日まで…。

 

その文書を秀吉は、自分と刑事の間にある小さなスチール製の机に置いた。

 刑事が一読し、口を開いた。

「これが届いてから、大村さんは橘さんに対して、電話、手紙、一切をしていないんですね?」

「そうです。」

「断言できますか?」

「できます。」

 秀吉は醒めた目で刑事を見返した。即座に刑事は視線を逸らした。

「お茶は飲みますか?私は要りませんが。」

「結構です。」

続いて刑事は、じっくりと文書に書かれた内容を読み始めた。幾つかの項目が書かれている。

「ここに『面会の強要』とあるね。『これらの行為があった場合、速やかに措置を取る』と。」

「ええ。」

もっとも、“これらの行為”をしなくても、あいつは措置を取ったが。

「その行為をしたのは認めるね?」

「ええ。」

 秀吉は苦い思いで頷いた。

 電話が着信拒否になった時、ミサが本当に人間不信になったのを心配して、秀吉はミサのアパートへ行った。そしてドアをノックしたが、誰も居なかった。自分の行動の馬鹿馬鹿しさに、自己嫌悪を抱いてそこを後にした。

「事前に連絡も無く、いきなり訪ねたらマズイよ。」

「着信拒否されて、どうやって連絡取ったらいいのか教えて欲しいですね。」

「着信拒否?」

 秀吉はまたもノートを指差した。このメガネハゲには記憶力が無いのか?

 刑事はひとり納得したポーズを取り、またも同じ事を繰り返した。

「では、この文書が届いてからは何もしていない。そうだね?」

「ええ。それ以前も、彼女に危険を及ぼす事はしてませんがね。」

 秀吉はまたマルボロ・ライトに火を点けた。記録的なペースだ。煙が立ちこめ、換気扇の動く音が響く。

 刑事が黙るのを見計らい、秀吉は逆に質問した。

「彼女は、今現在も被害に遭っているんですか?」

 刑事は顔を上げた。

「そうです。再三来られるのでね、私達も無視するわけにはいかなくて。今はストーカー法案が…」

 こいつには話をまとめる頭も無いらしい。

「以前彼女につきまとっていた奴じゃないんですか?」

「以前?」

 刑事は意外だという顔をした。

「付き合っている頃から、彼女にはよくストーカーが付きまとっていました。私が毎晩彼女の帰りを駅で待ち、アパートまで送っていた時期もあります。

 …その話は、彼女からは無かったんですか?」

「今初めて聞きました。」

 秀吉は唖然とした。それでは自分が容疑者になるのも当然だ。

 そこへ、また別の刑事が入室してきた。今度の刑事はチビ・デブ・ハゲと三拍子揃った中年男だ。こいつも眼鏡をかけているが、それについては秀吉も同様なので言うまい。

こいつはチビデブ。秀吉はそう呼ぶ事にした。無論心の中でだけだが。警察署内で刑事に不必要な喧嘩を売るほど、秀吉も馬鹿では無い。

「彼も橘さんの話を聞いているんでね。二人で大村さんの話を聞かせて貰いますよ。」

 チビデブは秀吉の左横、机の上座にあたる位置に座った。入れ替わるようにメガネハゲが退室する。

「悪いね。もう一度話してくれるかな?」

 秀吉は怒りを通り越し、阿保を見る目でチビデブを見た。ノートを指差す。

 チビデブはノートを読みながら(こいつらはこのミミズ文字を読み書きする訓練でも受けているのか?)、秀吉に質問した。

「じゃあ、大村さんは橘さんにはもう会ってない?」

 うんざりしながら秀吉は頷いた。

「結婚は考えていた?」

 あぁん?

「そういう話もありました。」

「お互い考えてはいたんだね。」

 こんな話をさせられるとは。これで満足か?と、秀吉は心の中でかつての恋人に問うた。

 彼女は何と闘っているつもりなんだろう。そんな言葉が頭に浮かんだ。

 

 メガネハゲが書類を持って戻ってきた時には、部屋に入れられてから一時間が経過していた。

 メガネハゲは文書を書き始めた。秀吉は二人の刑事の質問に答えながら、この時間が終わるのをただ待ち続けた。

 秀吉は閉所恐怖症ではない。だが体を動かすスペースも無いこの場所が、次第に肉体的苦痛をも生み出していた。しかも徐々に部屋の温度も上がっているようだ。

 世間にある冤罪事件。こんな部屋に何日も、何週間も拘留されたら、意志が弱ってやってもいない罪を認める人間がいてもおかしくないな、とぼんやり思った。

 秀吉の左側の壁、チビデブの頭上の高い位置に窓がある。そこから見える今日の空は、東京では久し振りに見る晴天だ。今の自分が置かれている状況を考えると、非現実的かつ無関係だった。すぐ下の道路を走る車のエンジン音とクラクションが、休む事無く聞こえていた。

 やがてメガネハゲが書類を書き終えた。

「聞いていて下さい。」

秀吉にそう言うと、刑事はそれを読み始めた。

 私、大村秀吉は四年前の十二月から橘さんと知り合い、その後交際を始めました。しかし去年の十二月、互いの考え方の相違から別れる事に至り…

 秀吉が話した内容の概要だ。こいつはこんな物を書いていたのか。

 読み終えたメガネハゲが秀吉に訊いた。

「間違いないですね?」

 秀吉は頷いた。続いて刑事は別の紙を取り出した。

「では、誓約書を書いてください。」

「誓約書?」

「今後二度と、付きまとい行為をしないという誓約書です。」

 秀吉の視線に気付いたのか、メガネハゲは慌てて付け足した。

「勿論大村さんにしてみれば、やってもいない無言電話や待ち伏せを責められるのは腹が立つでしょう。でもね、手紙や電話、それに面会を強要したのは事実。そうですね?」

「ドアをノックしたのが面会の強要ならね。何もブチ破って強行侵入した訳じゃない。」

「それは判っています。」

 刑事は誓約書の下書きを始めた。この通りに書いてくれ、との事だった。

 待つ間にチビデブが秀吉に告げた。

「まぁ、今後はこれを守ってくれるように頼むよ。」

 秀吉の戦闘モードが作動しかけた。

「今までと同じですね。」

「同じ?何が同じだ?」

 チビデブの口調がまた秀吉の気に障った。更に言えば176センチ65キロの、どちらかといえば細身の秀吉はデブと相性が滅茶苦茶に悪い。そして、デブが大嫌いだ。

 ・・・心が荒んでいるな。いつもならそんな事を意識もしない。秀吉は皮肉な笑顔を浮かべた。

「何もしないって事だよ。今までも俺は何もしてない。他の奴がストーカーをしているんなら彼女は危ないのかも知れないけど、俺にはもう関係ない。」

 秀吉がチビデブを醒めた眼で見ながらそう言うと、メガネハゲが顔を上げた。

「じゃあ、もう大村さんは橘さんの事を、もう好きじゃない?」

「好きじゃないです。ずばり言うなら、もう何もかも忘れたい。俺の新しい人生の邪魔をするな、これが本音ですね。」

 メガネハゲは納得したように頷いた。秀吉に無視された形になったチビデブは黙っていた。

 下書きが終わり、メガネハゲがそれを読み上げながら秀吉に見せた。N署署長殿、私大村秀吉は本日、貴署保安係の部屋で、橘さんに関する話をヤマグチ巡査部長とし(巡査部長?歳を考えりゃ妥当だ)、…本日以後、電話、手紙、面会をしない事を誓約します。

「面会、“等”、だな。」

 メガネハゲがミミズ文字を指し示しながら言ったが、秀吉はそれを否定した。

「“等”、じゃないです。他はしてないんだから。」

「そりゃそうだな。」

メガネハゲは呟いた。ひとりで納得してろ、馬鹿。

メガネハゲのミミズ文字は殆ど解読できず、秀吉は刑事がそれを読み上げるのを聞きながら、直筆で書類を仕上げた。下書きよりも誤字脱字が少なく、漢字を多用した。最後に氏名、住所、電話番号、生年月日、日付を記入する。

「暑いな。エアコンつけようか。」

メガネハゲが言った。遅いっつーんだよ。

「暗くなるけどね。」

窓が閉められ、ブラインドが部屋を暗くする。エアコンが動き始めたのか、ぶーんという鈍い音が秀吉の頭上から聞こえた。

「これにもサインをお願いします。」

 秀吉はメガネハゲが書いた、秀吉とミサの三年間の歴史の概要にサインした。

「印鑑は?」

「持ってません。」

 持ってくるか馬鹿。メガネハゲは朱肉を取り出した。

「左手の人差し指を出して下さい。」

 秀吉はまるで不法滞在の外国人になった気分で、濃い灰色の朱肉に指を押し付け、二枚の書類に拇印を押した。メガネハゲが手を拭く紙を秀吉に渡し、書類を手にした。

「最初に電話した時、『身の潔白が証明されたら…』とか、お互い朝も早かったのであんな話になってしまったけど…」

 秀吉は乾いた心でそれを聞いた。文句言ってやろうかと思ったが、こっちもポリ呼ばわりした。ここは連中のホームグラウンドだ。騒ぎを起こすのは得策ではない。

 それに、もう疲れていた。面倒臭かった。警察にも、かつての恋人にも…。

秀吉の表情から、その件は大きくならずに済んだと思ったのか、メガネハゲの言葉はそこで切れた。

「これで終わりだと思うけど。」

 チビデブが口を開いた。

「また何かあったら、悪いけど携帯にかけるから。」

 秀吉は醒めた目で刑事を見た。

「何かって、彼女が事件に巻き込まれた時とか?」

 刑事二人の表情が変わった。

「そうじゃないです。つまりこういう場合…」

 また長い話が始まる。秀吉はキッカケを作ってしまった事を後悔し、話が終わるのを

待った。

 ようやく話が終わった。

「御苦労様でした。忙しいところ悪かったね。」

 全くだ。

「それでは、運転気をつけてね。」

 メガネハゲがアクセルを握るポーズを取った。秀吉はそれを無視した。

秀吉は立ち上がってマルボロ・ライトを灰皿で揉み消した。おそらく十五本前後。二時間の間に吸った量としては過去最高だった。

椅子にかけてあった赤いブルゾンを羽織り、チビデブを完全に無視して部屋を出た。

廊下の先までメガネハゲに送られると、秀吉は彼の顔も見ずに「失礼します」と告げ、階段を降り始めた。

二階に降りた時、後ろから降りてきた警察職員の声が聞こえてきた。

「さーて、今日の昼飯は何を食べようかなー…。」

 呑気な事言ってんじゃねぇ。そう思いながらも早くここから出たくて、秀吉は振り返る事無く階段を降り続けた。

 署の玄関先に停めたセピアZZのメットインシートを開ける前に、左手首に嵌めたG−SHOCKを見た。

ここに着いてから二時間が経過していた。

空腹を感じ、そう言えば朝食をまだ食っていない事を思い出しながら、秀吉はZZのエンジンをかけ、その忌まわしき場所から離れていった。 

午後の太陽が、秀吉の背中にその光と熱を射した。

<終>

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